紀伊半島は海岸線一周も含め、ツーリングコースはほぼ制覇した私ですが、熊野古道の中辺路ルートに沿う国道311号線は未走破。
阪和自動車道田辺ICからのアプローチが一般的ですが、最近マイブームの地元の立ち飲み西海酒販で、ご常連さんから「424から抜けると早いし、気持ちいい道ですよ」と教わりました。
ツーリングマップルにもそのように書かれていたので、有田ICで下りて国道424号線へ。
有田川沿いに二車線の快走ルート。
県道29号線へ。
更に県道198号線へ。
左折するとすぐに水上栃谷トンネル (2,304m)を抜けて一気に峠をクリアします。
県道とは思えない二車線の快走路。
道の駅熊野古道中辺路に着きました。
自宅から3時間。
やはり遠い。
7時に家を出た時は、少しひんやりしていましたが、かなり気温が上がってきました。
この道の駅から、熊野古道はすぐ。
少し歩いてみることにします。
世界遺産に認定され、道標もしっかり整備されています。
古の平安時代から皇族や貴族を中心に熊野詣が盛んになりましたが、室町時代以降は武士や庶民の参詣が盛んになりました。
その様子は、蟻の行列する様に例えて「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったといいます。
中世熊野詣は徒歩が原則とされ、先達をつとめ、参詣ルートの整備や参詣儀礼の指導にあたったのは修験者であったため、困難な修行の道を踏み越えて行くこと自体に信仰上の意義が見出されていたのです。
江戸時代には伊勢詣と並び、庶民が数多く詣でたという熊野詣ですが、明治以降は熊野への参拝者自体が減り、道路や鉄道の整備もあって、この道はその役割を終えます。
伊勢詣が、発達した交通機関により、比較的手軽に参拝できるのに比べ、熊野は現代でも、遥かに遠いのです。
箸折峠にさしかかりました。
道の駅の案内では約25分とありましたが、私の足では15分ほどでした。
箸折峠の由来は、花山法皇が食事のため休憩をした時に、近くの萱を折って箸代わりにしたからといわれています。
見上げると、石柱らしきものが見えます。
ここに牛馬童子があります。
高さ50cm程度の、牛と馬の2頭の背中の上に跨った像。
延喜22年(922年)に熊野行幸を行った花山法皇の旅姿を模して明治時代に作られたとされています。
つかの間のタイムトリップでした。
国道311号線を東へ。
ここに関西屈指の秘湯があります。
古道ルートからもほど近い山の中にある女神の湯。
ここの特徴は、その泉質にあります。
入湯料650円を払って、簡易なプレハブ造りの建物へ入ります。
能勢の山空海温泉を思い出す、質素な造り。
ドアを開けると、そこは民宿のお風呂のような大きなホーローの浴槽。
見た目は特徴の無いお湯です。
しかし、身体を沈めると、その湯の質に驚きます。
身体に纏わりつくようなヌルヌル感。
美人湯で名高い龍神温泉どころではありません。
ヌルヌルを通り越して、トロトロ。
しばらく浸かっていると、肌がどんどんしっとりと滑らかになっていくのを実感します。
大げさに言えば、ネバネバするくらい。
まるで鶏鍋の汁で口の周りが粘つくような感覚は、コラーゲン風呂(そんなものがもしあれば)に浸かっているようです。
これは是非とも女性に浸かって頂きたいですが、あまりにも遠い。
飲用可なので、ゴクゴク飲みました。
古道歩きでかいた汗をさっぱりと流して、お参り前のお浄めもできました。
女神の湯を後にして、国道311号線の旧道を走ります。
この道は熊野古道のすぐ下を並走しているので、途中で色んな史跡へのアクセスが可能です。
例えば、この看板のわき道を上がれば、比曾原王子跡に至ります。
王子とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願されたものです。
熊野九十九王子(くじゅうくおうじ)とも呼ばれますが、実際に99ちょうどあるわけではなく、多数あるということの喩です。
野中の清水でバイクを止めます。
谷沿いを走る現在の国道311号線からは随分と高い場所にあります。
継桜王子の前の崖下の旧国道311号沿いに湧き出る清水。
熊野詣の人々が、わざわざ道から崖下に下りて喉を潤したという名水で、日本名水百選のひとつに選定されています。
斎藤茂吉の
「いにしえのすめらみかども中辺路を越えたまひたりのこる真清水」
の歌碑も建てられています。
斎藤茂吉は、1934(昭和9)年に土屋文明とともに熊野に来て、自動車で白浜に向かう途中に立ち寄って、この短歌を詠みました。
野中の清水は、現在も地元の人たちの貴重な飲料水・生活用水として使われている湧水です。
旧道からスイッチバックして、更に一段高い道に上がります。
バイクを止めて歩きます。
秀衡桜(ひでひらざくら)。
今は時期ではないので、濃い緑をみせるのみ。
平安時代後期、奥州の豪族、藤原秀衡が滝尻の岩屋に残したわが子の無事を祈念 して、そこにあった桜を手折り、別の木にその桜を継いだという伝承があります。
その桜が無事成長すれば、わが子も大丈夫であろうという願掛けが、その通りとなったという奇跡伝説です。
今の桜は、植え継がれて何代目かになります。
更に西へと歩きます。
山沿いにある茅葺き屋根のとがの木茶屋。
予約制で名物の茶がゆなどが食べられるそうですが、今日は無人。
茶屋のすぐ西にある継桜王子(つぎざくらおうじ)。
社殿に向かう石段を挟んで杉の巨木が立ち並んでいます。
これらの巨杉群は野中の一方杉(のなかのいっぽうすぎ)と呼ばれています。
国史跡、県指定天然記念物の名木で、継桜王子の境内を覆うかのようにそびえる樹齢800年の杉の巨木群です。
すべての枝が南の方角、すなわち那智山の方角を指しているといわれるご神木です。
「一方杉」と呼ばれる由縁は、杉のすべてが熊野那智大社のある方向(南)にだけ枝を伸ばしているからです。
生物の生態を知る上でも貴重なものと言われていますが、まるで那智を遥拝しているかのように見ることもできます。
最大のものは幹の周りがおよそ8mもあり、老木の空洞は、優に20人の大人が入れるほどの広さがあります。
王子社は石段を登りきった所に祀られています。
この王子は若一王子権現ともいわれ、野中(のなか)の氏神になっています。
明治42年に近野神社に合祀されましたが、 社殿はそのまま残されて祀りつづけられ、戦後になって、ご神体を戻し、復社を果たしました。
「野中王子」とは呼ばれずに、先ほどの秀衡桜の奇跡をもって継桜王子と呼ばれました。
国道311号線を更に東へと走ります。
次の目的地は湯の峰温泉です。
湯の峰温泉は、今から約1800年ほど昔の四世紀ごろ、第13代成務天皇の御代に熊野国造大阿刀足尼(おおあとのすくね)が発見した日本最古の温泉と言われています。
後に歴代上皇の熊野御幸によってその名が広く知られる様になりました。
熊野御幸では湯の峰温泉に一泊して身心共潔めてから詣るのが順序だったのです。
今も昔ながらの温泉情緒を残し、湯の町の風情を感じる事が出来ます。
古の人々は熊野詣の旅の途中、湯の峰で湯垢離を行い、聖地での禊ぎと旅の疲れを癒しました。
その最初の噴出地が東光寺。
本尊である薬師如来像は湯の花が自然に積もり化石となったもの。
胸のあたりから湯が湧き出ていたため、その像は「湯胸薬師(ゆのむねやくし)」と呼ばれていました。
「湯の峰」の地名はこの「湯の胸」に由来すると伝えられています。
第16代仁徳天皇の御代に裸形上人が、この湯の花化石薬師如来像に感得し、草庵を結び、東光寺を開基しました。
ここに立ち寄ったのは、もちろん私も古の習わし通り、湯の峰の温泉で身体を浄めるため。
温泉そのものが世界遺産に認定されているつぼ湯に入るのです。
つぼ湯に入るには、まず湯の峰温泉公衆浴場の受付へ。
ここで入浴券を買い、つぼ湯入湯のための番号札を受け取ります。
このつぼ湯入湯券で、一般湯か薬湯のどちらかにも入湯可能。
私の順番は今から5番後。
単純計算すれば2時間半後ということになりますが、制限時間の30分以内で出てくる人も多いから、そんなには待たないでしょうという受付の方の説明を信じて待つことにしました。
その間に遅い昼食です。
公衆浴場の横にある湯の峰温泉 売店・食堂。
素朴な田舎食堂です。
一般的な食堂メニューですが
「和歌山といえばしらす丼かなぁ」
と思って注文しました。
小さなお盆にのって出て来ました。
想像よりもボリュームがあるしらす丼。
梅干しがのっているのも和歌山らしいと思うのは、私の考えすぎでしょうか。
醤油を軽くかけ回して、頂きます。
しらすの下にはゆかりが。
しその葉や海苔と一緒に。
お腹いっぱいになりました。
待ち時間がまだまだありそうですから、温泉卵を作って食べようと、生卵を買います。
2個100円。
関連ランキング:郷土料理(その他) | 田辺市その他
温泉が湧く新宮川の上流。
階段を下りて、温泉卵を作るための湯が張ってあるところに向かいます。
ネットに入った卵を熱い温泉に浸します。
待つこと12、3分。
そろそろいいでしょう。
出来上がった温泉卵を手に下げて、熊野古道を歩いて、すぐ近くのつぼ湯に向かいます。
ちょうど私の前の順番の方が入る所でした。
待合所で温泉卵を食べながら待つことにします。
たまごマイスターを自称する私にしては、残念な剥き方。
それでも美味しい。
ようやく私の順番です。
1時間15分待ちました。
入口に自分の番号札を掛け、ドアの外に靴を置いてから、小屋の中に入ります。
中はかなり狭く、急な石段を下りた所が湯船となっています。
河原と同じ高さ、ということになります。
その名の通り、石垣で囲まれた壺のような形。
餓鬼阿弥の姿となり死の淵を彷徨う小栗判官が照手姫の助けを借り、湯の峰に達し、その湯に浸かって体を癒したという有名な「小栗判官と照手姫伝説」の解説が小屋の中にありました。
壺の底から温泉が湧いてくるのですが、それは高温。
うめながら入らないと熱すぎるのです。
つぼ湯の底には大きな丸い石が敷き詰められています。
一日に七回もお湯の色が変化するといわれていますが、私の時は淡い乳白色でした。
ここでも、古の熊野詣の気分を味わうことができました。
せっかくの権利ですから、もう一湯入ることにします。
一般湯と薬湯が選べますが、私は薬湯にしました。
こちらの方が源泉かけ流しで、湯の峰温泉では一番泉質がいいと受付の方に聞いたからです。
質素な造りの公衆浴場。
古い木枠の浴槽。
年季が入っています。
天井は吹き抜けになっています。
源泉かけ流し。
湯の花が浮いていました。
もう15時を回っています。
お浄めに勤しみ過ぎて、肝心のお参りの時間が減ってきました。
急いで熊野本宮大社に向かいます。
湯の峰温泉から15分弱。
熊野本宮大社に着きました。
全国の「熊野神社」の総本宮にあたる熊野三山。
三山の中でもとりわけ古式ゆかしい雰囲気を漂わせるのが、聖地熊野本宮大社です。
本殿へと続く158段の石段の両脇には幟がなびき、生い茂る杉木立が悠久の歴史を感じさせます。
総門をくぐると立派な社殿が現れます。
二年前は改修工事中で、覆いに囲われていて、とても残念でしたが、今回はその姿を拝むことが出来ました。
向かって左手の社殿が夫須美大神(ふすみのおおかみ)・速玉大神(はやたまのおおかみ)の両神。
中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。
そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られており、交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として人々を迎え入れてきました。
熊野本宮大社は、かつて熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありましたが、明治22年の洪水で多くが流出し、流出を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・遷座しました。
当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりでした。
音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたのです。
ところが明治22年(1889年)の8月に起こった大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座しました。
かつて多くの人々の祈りを受け止めた大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。
大斎原は、現在の熊野本宮大社から500mほど離れています。
大鳥居は高さ約34m、幅約42m、その背後のこんもりとした森が大斎原です。
熊野参詣道のなかでも、多くの人々がたどった「中辺路」を歩くと、難行苦行の道のりを終え最初にたどり着くのが熊野本宮大社。
そんな古の熊野詣の人々の気持ちを感じることが出来る、スピリチュアルな場所です。
熊野本宮大社から下流の新宮川は、幅を拡げ、ゆったりと流れています。
その川沿いに国道168号線を南下して、新宮市内に向かいます。
もう17時を回ってしまいましたが、本日二社目の熊野速玉大社のお参りです。
神門をくぐります。
先ほどの熊野本宮大社の侘び寂びのある重厚な造りと異なり、朱塗りの神殿が美しいきらびやかな神社です。
もちろんここも世界遺産。
結宮。
速玉宮。
その右手には上三殿、八社殿と続きます。
拝殿はそれぞれ、その手前に。
二年前に来た時に、熊野三山でここだけ交通安全お守りを求めていませんでした。
また一つ、旅の安全を守ってくれるお守りを手に入れました。
お参りを済ませ、和菓子の香梅堂へ。
銘菓鈴焼が余りにも有名な老舗です。
風情のある店内。
職場のお土産に名物の鈴焼を。
小さなカステラ風の焼き菓子です。
ほのかな甘味とふんわりした食感は、どこか懐かしい味。
このお菓子を知ったのは、大阪で私の髪をずっと切ってくれていた美容院のスタイリストさんが、新宮の実家に帰るにあたり、サシ飲み送別会をしたところ、お礼にこのお菓子をくれたから。
そして、今宵はその彼とこの新宮で一年ぶりの再会と、美容院の開店一周年を祝した一献の約束です。
今回の旅の目的の一つに、ある人との再会の約束がありました。
私が転勤以来通っている美容院、東天満のhooploopのスタイリストだったO君。
独り暮らしのお母さんの面倒を見るために、新宮の実家に帰ることになり、1年前に大阪を離れて、独立して新宮で自分の美容院を開業することになりました。
新宮と大阪を行ったり来たりしながら開業準備を進める彼に髪を切ってもらっている時に、準備の大変さについてよく話を聞きました。
昨年7月に、私の行きつけの南扇町の居酒屋旬味ひげでサシ飲み送別会をやって以来の再会です。
旬味ひげは、マスターの奥さんが彼のお客さんでもあるという共通項もあったので、そこで飲むことにしたのでした。
あれから1年以上。
フェイスブックでつながっているので、今回のツーリングを決めた時に、彼に連絡を取り今晩の約束をしました。
美容院の閉店時間に合わせて、ホテルからぶらぶらと歩いて15分ほど。
昔は喫茶店だったという、彼の美容院が見えて来ました。
ずいぶんと洒落た、そして可愛い造りです。
店名はsam hair。
O君の名前の一部を取ったネーミング。
地元の工務店との調整が大変だった、とO君は言いますが、彼の思いがこもった、小さいけれども、大きな可能性を秘めたお店。
「新宮には無いシャンプー台なんです」
と自慢するO君。
大阪から持参した開店祝いの手土産を渡し、飲みに行くことにしました。
といいながら、彼が連れて来てくれたのは魚が美味しいと地元で人気の居酒屋きのした。
土地の旨い店は、土地の人に聞くのが一番です。
私一人なら、見つけられなかったお店。
一階はカウンターと小上がり、吹き抜けの二階にはテーブル席。
満員御礼、地元の皆さんで大賑わいです。
私たちはカウンター席に座りました。
まずは再会を祝して乾杯です。
突出しは肉じゃが。
ほっこりと、旨い。
この店は間違いない、と予感させる味。
カウンターの目の前にぶら下がる膨大な量のメニュー短冊に圧倒されます。
「クジラとイルカが食べたいけど、後は君のオススメを頼んでよ」
とO君にお願いします。
流れ子煮、と彼が頼んだのはトコブシでした。
地方によって呼び名が違うのも、また旅先の楽しみ。
かなりしっかりと味が滲みていますが、辛いわけではありません。
メニューに書かれている通り、確かに柔らか。
ミンククジラの刺身。
竜田揚げを頼んだつもりが、お店が間違えたようです。
でも、これはこれで好きなので問題なし。
子供の頃、大好きでよく食べたクジラの刺身。
安くて美味しかったのに、と思うと残念です。
にんにく、生姜、ネギを脂身とサンドイッチして。
馬刺しの赤身とたてがみを一緒に食べる食べ方に似せてみました。
抜群に旨い。
「捕鯨の仕事してる友達がいるんですけど、制限が多くて収入がすごく減ったって嘆いてました」
とO君。
世界的に問題視されている日本の捕鯨ですが、私はどうも議論が噛み合っていないと感じます。
ピンピン貝。
どんなものが出てくるのかと思ったらマガキ貝です。
三重県から勝浦方面での呼び名だそうです。
イルカの造り。
イルカと聞いて
「え、食べるの?」
と驚く人も多いかもしれませんが、このエリアでは極めて普通の食材。
これで650円。
クジラの小型な生物がイルカ。
当然ながら哺乳類ですから、動物の肉の味がします。
とはいえ、海で暮らしているからか、その味は同じ赤身の牛よりははるかに癖がありません。
クジラよりは身体が小さい分、味は濃縮された感じで、実に美味。
これは背脂がついている部分なので、脂身と一緒に、やはりにんにく、生姜、ネギを絡めていただきます。
「僕が子供の頃は、しょっちゅう食べてましたね。すき焼きとかいったらイルカでしたよ。牛肉より安くて、味が似てるから」とO君。
食は文化であり、その文化が形成された歴史を知らずして、軽々に批判すべきではないと私は考えます。
お酒はプレーン酎ハイに切り替えます。
くじら内臓 うでもの酢みそ。
クジラの腸をはじめ、いろんな部位を塩茹でにしたものを酢みそでいただきます。
「うでもの」とは、「茹でもの」の意だと思われます。
丸いものは腸ですが、後はお店のホール係の女性に聞いても釈然としませんでした。
あらゆるモツが好きな私は、もちろんこれも大変口に合いました。
やや塩が利いたモツと酢みその相性は抜群。
ボリューム満点でたった650円。
あらゆるモツが好きな私は、もちろんこれも大変口に合いました。
やや塩が利いたモツと酢みその相性は抜群。
ボリューム満点でたった650円。
プレーン酎ハイはお代わり。
一方O君はさっきから麦焼酎の緑茶割り。
「こっちではみんな麦の緑茶割り飲みますね」
「甲類じゃなくて、麦なんだ。麦の味と緑茶が混ざるのが好きなのかな」
「どうなんでしょうね。でもみんなこれなんですよ」
こんなところにも食文化。
秋刀魚丸干し。
「旬なのに丸干しにしちゃうの?」
と私。
「熊野の名物なんですよ」
せっかく旬の秋刀魚が大量に水揚げされるはずなのに、と思いながら一口齧ってみました。
塩焼とは全く異なる食味、食感。
いわしの丸干しのもっと食べ応えのある感じ。
干すことによって、アミノ酸などの旨味成分が増加するのでしょう。
しかも骨まで食べられるので、カルシウムも補給できます。
日持ちもしますから、先人の知恵は偉大です。
酒が進むつまみが目の前にいっぱい。
私は焼酎に切り替えます。
迷った末に薩摩宝山のロックにしました。
「この店は違いますけど、熊野は昔から飲食店は高飛車なんです。黙ってても熊野詣に人が押し寄せてたから」
「へぇ、そうなんだね」
「高飛車というか、人見知りもあると思いますけどね。あんまり愛想は良くないです」
それでも、私にはこの店の奥さんやホール係の女性はとても好印象でした。
「そろそろ締めようか。O君の食べたいもの頼んでよ」
それを受けた彼が頼んだのはめはり寿司。
これも熊野の名物です。
私も前回の熊野詣で食べたことがありますが、当店のは特大。
南紀・熊野地方の山仕事や農作業で食べる弁当として始まったと伝えられ、現在でも当地の家庭料理としてポピュラーなもの。
寿司とは言うものの、酢飯ではなく白米で握った大きなおにぎりを高菜で包みこんで作ります。
この店ではご飯に菜っ葉が混ぜ込んであります。
「家によって作り方や味が違うんです」
というO君の説明に納得。
きっと我が家の味があるのでしょう。
めはり寿司の呼び名は、「目を見張るほどの大きさだから」「目を見張るように口を開けないと食べられないから」「目を見張るほどおいしいから」に由来するという説、あるいは、「おにぎりに目張りするよう完全に包み込むから」に由来するという説もあります。
実に美味しいですが、食べ過ぎました。
O君のお店は、開店当初は色々と苦労があったものの、今では軌道に乗り、順調だそうです。
「ほとんど口コミなんですよ、田舎だから」
と笑う彼。
新宮市内の一等商業地に運良く物件があったことも、成功の一助のようです。
一スタイリストして髪を切っていた時と、お店を経営する、という事業者の立場になってからでは大きく人生が変化したと言います。
私から見ても、実に逞しく、立派に成長したと感じました。
息子といってもおかしくない年齢差のO君ですが、故郷の新宮でしっかりと根を張って、美容院を経営していました。
4年前に大阪に転勤して、すぐに通い始めた美容院で知り合った、ある意味私の最初の大阪の友人でもあります。
そんな、彼のビジネスが今後ますます上手くいくことを願い、固い握手をして別れました。
↓ クリックお願いします(^^)/
0 件のコメント:
コメントを投稿